温泉のある風水の都やまぐち
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四獣神が護る理想の地を、「四神相応の地」と呼ぶ。 その地がやまぐちにある。
現在の山口市のまちは、約600年前に大内氏によって作られました。その際に、風水の考え方を取り入れて作られた、京都の町を模したと伝えられます。
大内氏の時代にルーツあり
山口市のまちは、大内氏の時代にルーツがあり、鎌倉と並び中世の風水が残る数少ない土地とされています。また、大内氏が滅びた後に山口を治めた毛利氏もその風水の考え方を踏襲したまちづくりをしました。大内氏の四神相応は龍福寺あたり、毛利氏の四神相応は現在の県庁あたりと伝わります。山口市は、大内氏と毛利氏の風水がともに活かされた、まち全体がパワースポットなのです!
古地図を片手にまち歩き。
温泉に入ってさらに運気を底上げしましょう。
東:子宝、安産、商売繁盛
明治10年頃に料亭として創業。平成16年、現地に移築。井上馨のほか、伊藤博文、木戸孝允、佐藤栄作など、維新に関わった人物や歴代総理大臣らの扁額29枚とゆかりの所蔵品が展示されています。
大殿
周防·長門両国を勢力下におさめた大内弘世(大内氏第9代)。彼が新たな拠点として、なぜ現在の山口市「大殿」を選んだのか1|。弘世による山口開府は「京を手本に」というエピソードでよく語られますが、その後の大内氏の繁栄や、「西の京」とまで呼ばれるほどの山口の発展は、大殿が京と同じ「四神相応」の地であったからこそ。弘世は士地選びにあたって、京から険陽師を呼び寄せたとも。実際、「山口古図」の添書には、「周防国山口は四神相応にかなった地で、町の場所をここに定めた」という記述があります。
そして、幕末には萩から藩庁が山口へと移され、お膝元の「大殿」は明治維新の策源地となりました。四神の気脈をエネルギーに長州志士たちは大業を成し遂げ、その後の時代も四神が護ってくれたのか、山口は戦災に遭遇しませんでした。そのおかげで、室町時代の町割や通り名、歴史的建造物が数多く残り、「山口古図」ほ匠そのままの街並みが年の長きにわたり維持されています。
西:出世、成功、金運、勝利
虎のいない日本では、狐が神仏の使いに
湯田温泉
熊野神社が祀られた権現山の麓に湧く温泉。ところが、1707年に突然お湯が枯渇。なんでも、遠く離れた富士山の宝永大噴火の影響によるものだったのだとか…。山口の人々は悲嘆にくれましたが、まるで人々の願いが四神の白狐(山口の西方である湯田を護る四神は、「白虎」ならぬ「白狐」!)に届いたのかのように、3年後の1710年、再びお湯の湧出が始まります。それから今Bへと至る300年もの間、お湯は途絶えることなく湧き続け、いつしか山陽随一の名湯として、世に広く知られるようになりました。幕末には、坂本龍馬や西郷隆盛、京都から下った三条実美ら公卿たちが山口に集い、長州志士たちと密議を重ねたといいます。四神の気脈が力強く流れるお湯は、明治維新へと向かう彼らにとって、時にはひとときの癒し、時には源る志の原動力になったことでしょう。
白狐伝説
昔々、湯田の権現山の麓のお寺の境内に小さな池がありました。その池に毎晩、一匹の白狐が傷ついた足をつけにきていました。その様子を見ていた寺の和尚さんが、不思議に思って、その池の水をすくってみると、暖かかったのです。そこで池を深く掘ってみると、湯がこんこんと湧き出るとともに、薬師如来の金像があらわれたではありませんか。
この仏像は拝んで湯あみをすると難病も治る「白狐の湯」として評判となり、温泉は栄えるようになったそうです。
南:地位名誉、人気、幸福、家運繁栄
瑠璃光寺には、仏様の体を撫でると、痛いところが良くなったり、ぼけ防止のご利益がある《なで佛》や、珠を8個落とすと煩悩と厄難が取り払われ開運につながる《大念珠》があります。
「人形御殿」伝説
第9代大内弘世は、ふるさとの京を恋しがる姫のために、人形師を京から招き、御殿を人形で飾り尽くしました。まちの人々は「人形御殿」と称えました。
北:長寿、健康、魔除け
瑠璃光寺には、仏様の体を撫でると、痛いところが良くなったり、ぼけ防止のご利益がある《なで佛》や、珠を8個落とすと煩悩と厄難が取り払われ開運につながる《大念珠》があります。