湯田温泉の歴史
権現山の白狐伝説
室町時代、山口は京都に次いで、堺や博多などと並ぶ大都市のひとつとして栄えていました。この地を治めていた大内氏が京都になぞらえて建設した町並みは美しく、その中でも、山口の中心街に近く自然の景観にもすぐれ、豊富な湯が湧き出る湯田の地は、魅力ある土地として広くしられていました。
ケガをした一匹の白狐
この温泉の起こりは、三十世大内義興(よしおき)公の時代にまでさかのぼります。
そのころ、村のお寺にあった小さな池に、ケガをした一匹の白狐が毎晩傷ついた足をつけにやって来ていました。
その様子を眺めていた和尚さんが、夜明け近くになってようやく去って行く白狐の住みかをのぞいてみたところ、そこは、お寺の北東にある峰の中腹で、かつて二十四世大内弘世(ひろよ)公が紀伊の熊野三所権現を迎えてお祀りした権現山だったのです。
不思議に思った和尚さんが、白狐をつけていた池の水をすくってみると、なんとほんのり温かい。そこで、さらに深く掘ってみたところ、なんと大量の湯がこんこんと湧き出てきたのです。
和尚さんが掘った池から出てきたのは、実は温かい湯だけではありませんでした。土の中からは同時に薬師如来の金像が現れたのです。喜んだ和尚さんは池を屋根で覆い、傍らに仏堂を建てて薬師如来を安置し、湯田温泉を鎮護する仏としたのです。
舞い戻った薬師如来の像
それ以来、山口の民衆が多く集まり、薬師如来を礼拝しては入浴するようになりました。民衆たちの不治の病はたちまちよくなり、皆が健やかに暮らせるようになりましたが、いつの時代も悪い人間がいるもの。この薬師如来を奪う盗賊が現れてしまいます。盗賊は九州の地まで逃げましたが、そこで海に落ちて死んでしまい、薬師如来もいっしょに沈んでしまったとのこと。
しかし、数年経ったある日、不思議なことに薬師如来の像だけが仏堂の中に舞い戻りました。和尚さんは薬師如来を修復し、仏堂も再建したということです。
湯田温泉には、薬師如来にまつわる不思議な話が他にも多く残されています。人々は、この温泉こそ熊野三所権現が授けてくださった霊妙な力を持つ液体であり、薬師如来もまた神が託されたものである、と大切に思い、湯田の町を温泉の町として繁栄させ続けたのです。
温泉春色
湯田温泉の名を広く知らしめたものの中に、『山口十境詩』というものがあるのをご存じでしょうか?
足湯のある湯田の脇道に建てられた詩碑には、その中のひとつである「温泉春色」という詩が刻まれています。
大内弘世公の時代に山口を訪れた明の使者・趙秩(ちょうちつ)は、名勝十箇所を選び、『山口十境詩』と題して十境の詩を詠みました。その中にある「温泉春色」は、湯田温泉を象徴したもので、趙秩は湯田の自然を「姿がすぐれふっくらとしている」と賞賛しています。
「温泉の春色(しゅんしょく)」
山川、秀孕たり、陰陽の炭
天地、鋳成せらる、造化の炉
誰か献じけむ、玉鴎、天宝の後
派分して、春色、東隅に到る
現代語訳
この地(湯田)の自然(山川)は姿がすぐれふっくらとしている。これは陰の気と陽の気が激突して流れる出る溶岩が造りあげた結晶である。
すなわち、天地万物は、天然の溶鉱炉の中で鉱物を溶かして鋳型にはめて造りだされたものといえる。
それにしても、いったい誰が、唐の玄宗皇帝の治世、天保(七四二~七五五)の後までも美しい百合鴎を献上したのであろう。
それか派かれて分かれて、ついに東方の国、日本の一隅まで飛んできて、周防の湯田の川面にその可憐な姿を浮かべ、春景色を美しく描き出している。
明治維新と湯田温泉
山口は激闘の幕末に活躍した維新志士たちとゆかりの深い土地。
湯田温泉はなんと、かの高杉晋作や伊藤博文、坂本龍馬らが度々訪れ、酒盛りをしていた場所なのです。
当時志士たちが集まっていたという歴史ある旅館も残されており、幕末の公卿で長州に亡命した後この地に滞在していた三条実美も、この旅館に度々滞在していたといわれています。この場所で、日本の歴史を築いた人物たちによる密議が夜ごと行われていた、というわけです。また、彼らが入浴したという浴槽も残されており、「維新の湯」と呼ばれています。江戸時代の末期につくられたこの浴槽は、高杉晋作、西郷隆盛、大久保利通、大村益次郎、坂本龍馬、伊藤博文など、誰もがその名を知る有名な志士たちがつかった貴重なものであるにも関わらず、誰でも利用できるのが魅力的です。
このような歴史を持つ湯田温泉のまちには井上馨の生家跡につくられた公園もあり、歴史に思いを馳せながら散策するのにちょうど良い場所、みなさんも、志士たちが癒された由緒ある湯にゆったりとつかり、その効用をじっくりと味わってください。
中原中也を生んだ湯田の地
湯田温泉とゆかりのある著名人は、維新の志士だけではありません。日本のランボーといわれる詩人・中原中也も、実はこの土地で生まれ育った人物なのです。
明治四十(1907)年四月二十九日、中也は湯田温泉で医院を開業していた中原謙助、フクの長男としてこの地で生まれました。昭和四(1929)年に河上徹太郎ら友人たちと同人誌「白痴群」を創刊。昭和九(1934)年には第一詩集『山羊の歌』を出版し、詩壇に認められます。フランス詩の翻訳も手がけるなど広く活躍しましたが、わずか三十歳で短い生涯を閉じました。
その後、第二詩集『在りし日の歌』も刊行され、今も日本はもちろん海外でも多くの人々に愛されています。
中也の生家跡に建てられた「中原中也記念館」では、遺稿や遺品を中心に、貴重な資料を公開しています。また、井上公園に建つ詩碑では、中也がこの地を思い詠んだ「帰郷」という詩、錦川沿いにある詩碑には、小学校の教科書にもよく採用されている「童謡」という詩に出会うことができるでしょう。
「帰郷」
これが私の古里だ
さやかに風も吹いてゐる
ああおまへは何をして来たのだと
吹き来る風が私にいふ
「童謡」
しののめの
よるのうみにて
汽笛鳴る。
こころよ
起きよ
目を覚ませ。
しののめの
よるのうみにて
汽笛鳴る。
象の目玉の
汽笛鳴る。
種田山頭火も愛した温泉
酒と旅、そして温泉を愛した俳人・種田山頭火もまた、湯田温泉にゆかりある人物のひとりです。山頭火は防府市の生まれですが、昭和七(1932)年、小郡の「其中庵(ごちゅうあん)」に住んでからは、十二キロの道を歩いて湯田温泉に通っていたと言われています。
その後、昭和十三(1938)年には湯田前町竜泉寺の上隣に移り住み、小郡・湯田の時代に、湯田温泉のことを多く詠んだとのこと。中でも錦川通りにある句碑に刻まれた作品は、ユーモラスにあふれたものとして親しまれています。
ちんぽこも
おそそも湧いて
あふれる湯